ナマステ
シュリ・アンマ・バガヴァン 🙏🏻
時を経て、私はある気づきに至りました。
その気づきは今や私の現実となっております。
これらの状態を書き留めておきます。
「見る」とは、他者が、真に、そして自由に、その人自身であることを受け入れることです。
たとえ条件付けられていたとしても、その状態は自由に流れています。
誰もがその人自身であることしかできません。
けれども、ある者にとって健全と認識されるものが、別の者にとっては病となることもあります。
ですから、決してジャッジすることはできません。
ただ見ることしかできません。
見ることの中に受容があるのです。
人は他者を自己が作り出した枠組みに押し込めることはできません。
彼らは自らの選択と共に流れるままに、幸せであったり不幸であったりします。
自己(セルフ)が自身と共にいたいと望む時、それは神を選びません。
しかし自己(セルフ)が消え去り神に道を譲る時、神のみが存在します。自己(セルフ)が存在する限り、あらゆる生来の性質はそこから生じます——それが善であれ、悪であれ、醜いものであれ。
求道者は神意識の中で成長します。
成就者は神秘的な力の獲得の中で成長します。
信奉者は主の愛の中で成長します。
同様に、自己(セルフ)は自己自身の獲得の中で大きくなります。
私はまた、すべてが完璧以外の何物でもないことも理解するようになりました。
万物はありのままであり、その本質を侵すものは何もありません。
自然そのものも変化します。
人もまた変化します——恩寵を求め、そして受け取らせていただくことで成長し、祝福の大地に深く根を下ろすのです。
愛は見て、愛だけが受け入れます。
すべてはシュリ・アンマバガヴァンの神聖な蓮華のおみ足の元に安らぎます。
- スジャータ・グルデヴ、
メガラヤ州在住
(訳者:菅)
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体験の朗読
悟りの体験(アートマ・サクシャッカーラ)
