悟りの体験(アートマ・サクシャッカーラ)
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ナマステ、ムンバイのシュウェタ・ナイードゥです。
シュリ・アンマ・バガヴァンとの私の旅は2001年3月7日に始まりました。
その日、私はアクシデントのように、シュリ・バガヴァンの誕生日を祝う寺院のプログラムに足を踏み入れました(それは神聖な計画でした)。
私がそれをアクシデントと呼ぶのは、私は無神論者で、科学以外の何も信じていなかったからです。
イベントの終わりに、あるセヴァックが私にヒーリングをしてくれました。
家に帰ると、私のマインドは完全に静かになりました。
思考は一切なくなり、この穏やかな状態が数ヶ月続きました。
それがムクティ状態の体験だとは、その時の私は知る由もありませんでした。
ただ、毎瞬を生きているということだけはわかりました。
この体験に興味を抱き、私はあるセヴァックを探し出して連絡を取りました。
そして、どのようにしてか、すぐにアンマ・バガヴァンを私の神聖な友人として受け入れたのです。
幸運にも、過去の私の良いカルマがそうさせてくれたのだと思います。
彼らが言うように、あなたの知性はカルマに左右されるのです。
(知性はカルマに従う。)
当時、私は工学部の最終学年でした。
この深く穏やかな状態のおかげで、学業が非常に楽になり、スムーズに進みました。
また、アンマ・バガヴァンとの美しいつながりを感じ、それが私をあらゆる面で支えてくれました。
自然とすべてのプログラムやセヴァに参加したいという気持ちになり、それは私に大きな喜びをもたらしました。
私はバガヴァット・サクシャッカーラ、つまり主が物理的な姿になるという体験をし、シュリムルティから様々な供物をいただきました。
私は非常に安定した子供時代を送り、あらゆる安らぎと確かな学歴に恵まれ、教師や家族から多くの愛情と評価を受けてきました。
しかし、本当に生きるということが何を意味するのかを理解したのは、この喜びと平安を真に体験したときでした。
2003年、私はシュリ・バガヴァンにお会いしました。彼は私にこう言いました。
「あなたはスピリチュアルな探求者です。ディクシャが与えられる機会に、私たちのキャンパスに来なさい。」
私にはそれが全く理解できませんでしたが、ただ何度もバガヴァンにお会いしたいと願っていました。
2003年頃にムクティ・ディクシャが始まった際、私が出席するのはほぼ不可能でしたが、バガヴァンの祝福と彼の御言葉のおかげで、それが可能になりました。
シュリ・アンマ・バガヴァンの御前でディクシャを授かった後、私はバーラ・アヴァスタ(子供のような状態)や、理由のない喜びといったステイトを経験しました。
その後、様々なプロセスを経て、これらの状態に入ることはごく自然なことになりました。
これらの状態を一度味わってしまうと、他のすべての経験が些細なものに感じられ、無意識のうちにこれらの経験を追い求めるようになっていました。
しかし、これらの経験以上に重要だったのは、シュリ・アンマとバガヴァンにお会いすることでした。
彼らとの何気ない会話の中で、知らず知らずのうちに内面の状態が突然変化するのを経験したのです。
それゆえ、私は一度のダルシャン(聖なる謁見)が何千ものプロセスを飛び越えると信じています。
私の旅路において、内なる対話に気づき、意識するようになりました。
それはただの出来事でした。
ステイトは崩れ、変動し続け、時には自分がどこにいるかに応じて人生に反応したり、応答したりしていました。
むしろ、長い間これらの経験を失い、最終的に、おもに傷ついた人間関係にひどく行き詰まっていたため、より高い経験と意識の成長を求めて再び祈り始める段階になりました。
そして、ある旅の中で、私は「今あるもの」を経験するということがどういうことなのか、真に理解しました。
そして今日、それは恩寵によって私の自然な一部となったため、ためらわずにそこに留まっています。
バガヴァンが言うように、他のすべては自動的です。
2016年には、サティアローカで再びピークステイトを深く体験しました。
2018年以降、ピークステイトに入るのには、何の努力もいらなくなりました。
ステイトは低下することもありましたが、意識は完全に保たれていました。
ピークステイト体験の後、機能的な状態では、私はあらゆる思考や感情を観察し、時にはマインドの活動に動揺することもありました。
しかし、ゆっくりとその比率が変わり始め、平安がより頻繁になり、苦しみが減っていきました。
私の行動は自然で自発的なものになりました。
毅然とした態度が必要な場面では、それが自然に生まれ、手放すべき時にはそうしました。
人々に対してより大きな感受性が育まれました。
自己中心的であった状態から、自然に、他者中心へと移行しました。
自己中心的な活動においても、セルフの内なるニーズが何を満たしているのかという気づきがありました。
ステイトが低下しても、私はそのことを意識し続け、あらゆる葛藤のさなかでも平安は続きました。
私の認識は自動的に変化し始めました。同じ困難を、成長のためのレッスンとして、新たな視点で見られるようになったのです。
シュリ・バガヴァンが言うように、
「それは旅であり、目的地ではない」。
この旅の加速は、昨年の8月、私の人生で非常に困難な時期に、シュリ・バガヴァンに再びお会いした後で起こりました。
どんな魔法が起こったのか分かりませんが、
過去からのあらゆる感情的なわだかまりが、ただ消え去りました。
深い平安と、アンマ・バガヴァンとの深遠な絆が生まれました。
大きな恐れや不安が、ただ溶けてなくなったのです。
ナヴァラトリ・ホーマは、さらなる飛躍となりました。
そこには平安とともに喜びがあり、それはまさに出来事でした。
ナヴァラトリ・ホーマは、さらなる飛躍となりました。そこには平安とともに喜びがあり、それはまさにハプニングでした。
小さなきっかけでさえ、深い喜びにつながるようになりました。
私はさらに自発的になり、子供たちや動物が、自然に私に引き寄せられるようになりました。
ある朝の散歩中、犬の群れが私のもとに来て、周りで遊び、そして穏やかに去っていきました。その時、私は微塵も恐れを感じませんでした。
他者との深いつながりが生まれ、人々の痛みを容易に感じ取れるようになりました。
私がいるステイトにもよりますが、全く傷つかないか、もし傷ついても、それに気づき、体験することで解消されます。
セヴァ(奉仕活動)においては、話したり指導したりすることが自然にできたのですが、それとは別に、どこからともなく人々が私に電話をかけてきて、悩みを打ち明けるようになりました。
ある人たちはよく「あなたからは何のジャッジも感じない」と言いました。
私は時々、なぜ彼らはこんなことを私に話すのだろう、と不思議に思いました。
私の生産性とエネルギーレベルが向上しました。
それは私の健康にも良い影響を与えました。
必要なものは何でも自然に手に入るようになり、そのため、将来に対する大きな不安が消え去りました。
心の声に耳を傾けることが自然になり、そうせずにはいられません。
深い充足感があり、特定の経験への切望はもうありません。
今そこにあるもの、たとえそれが「最も醜い」とされる思考であっても、それを受け入れることができます。
時には、何もすることがなくても、ただ存在していることができます。
多くの場所で、私のアイデンティティは消え去り、行為をする者としての意識はなくなりました。
私は、なされるべきことのパイプ役だと感じており、そのことに感謝しています。
スダルシャナ・ホーマとパラムジョッティ・ディクシャの間、私はパラムジョッティ・アンマ・バガヴァンとの一体感を経験しました。
私の意識が彼らの中に引き込まれ、完全に飲み込まれるのを感じたのです。
その絆は揺るぎないものとなり、「なぜ」「どのように」「いつ」といった疑問さえも決して湧き上がることがありません。
これらすべては、ただ起こっていること、ハプニングなのです。
シュリ・バガヴァンのムクティ・モクシャ・クラスは、今や私の生き方そのものとなり、多くの教えを直接体験しています。
ある出来事の後、私は自動的に、人々を個人としてではなく、彼らの心、彼らの状態、彼らの必要性として見るようになりました。
それゆえ、たとえそのような人が現れ、私がそれに気づいたとしても、ジャッジは長続きしません。
ステイトの転送のプロセスの間、人々は深い平安を体験します。
もし私がセッションを欠席すると、彼らからメッセージが届きます。
私は、人生における最大の奇跡は、ステイトという贈り物であり、最高の成長は意識の成長であると固く信じています。
もし私が家族のために祈るなら、まずこの状態を、そしてもちろん彼らが望むものを祈るでしょう。
ジェイボロ・ムクティ・プラダータ(悟りを与えてくださるお方)
シュリ・アンマバガヴァン、
キ・ジェイ!
(訳者:日内地)
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体験の朗読
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