悟りの体験

★悟った人の体験談★(2021.07.15)

2021年7月15日

*苦しみがありません*
苦しみの定義を忘れてしまったかのようです。人々が「苦しみ」と呼ぶものは、ただ感情/体験のひとつに過ぎませんーただそれだけです。マインドがそれを「苦しみ」と名付けることがありません。

例えば、数週間前、何かが私をとても悲しませました。私はその悲しみに完全に没頭し、そこから抜け出したり、何か他のものに変えようとは思いませんでした。私は、喜びや至福、感謝を体験するように、その悲しみを体験しました。その体験自体が、とても穏やかで平和でした。

ですから、どんな種類の体験にも抵抗はありません。善と悪、苦痛と至福、正しいものと間違ったものといった区分は、マインドの中にはもうありません。

*持ち越しがありません。葛藤がありません。比較がありません。傷つきがありません。チャージがありません。罪悪感がありません。*何ヶ月も前から、これらのものは全くありません。

*恐れがありません*
例:機能的には、私たちは娘を良い家庭に嫁がせるためにあらゆる努力をしています。時々、「もし娘が結婚できなかったらどうしよう」というような考えが浮かぶことがあります。

しかしこの考えの直後には、マインドが恐怖やストーリーを挿し入れようとしていることに気づきます。すると恐怖やストーリーはすぐに止まり、知性が流れてきます。それはこれ以上できることは何もないことをよく知っています。そして、すぐにお手上げ状態とゆだねが訪れ、努力なしに至福と平和が訪れます。

機能的なものを除いて、*判断(ジャッジ)がありません*

*思考に関して:*
葛藤やプレッシャーのない思考。
ここで、私は2つのタイプの体験を説明することができます。

1つは、外側で完全に活動的であるときは、適切な種類の思考と直観を得て、非常に成功した行動をとることになります。また、必要な事柄について一生懸命考えることもあります。懸命に考えることは、美しいアイデアを得ることにたどり着くか、あるいはその問題について今のところ何もできないことを悟ることに行き着きます。思考はそこで停止します。

さらに別の状態もあります。マインドは静かでほとんど何も考えておらず、身体は静まり返っていて(部分的または全体的に)停止しています。そして至福と感覚への気づき、あるいは静かなる「ディヴァイン・プレゼンス」の中で、数分から数時間、座ったり横になったりします。

思考、マインド、身体との*同一化がありません*。この同一化はずっと以前から失っていたように思います。

*セルフについて :*
欲望は私のイハムのニーズを満たすためにやってきます。基本的に、これらのニーズが来たり去ったりすることに抵抗はありません。それらはセルフから生じるものかもしれませんが、私にはわかりません。それらはただニーズとして現れる、それだけです。
マインド/セルフは(それが何であれ)、どのような関係性にも干渉しません。セルフ/マインドと定義されるであろう内側で起こっていることに完全に気づいています。そして、これらの願望が満たされないことも完全に受け入れています。それは全く問題ではありません。それは内側にある平和を妨げるものではありません。

静寂、喜び、平和、思いやり、そして愛が常にそこにあります。すべての機能を果たすためのエネルギーがこんなにも豊富にあります

私の子供たちは、私のことをスーパーウーマンだとからかいます。私は「私の中にはスーパーアンマバガヴァンがいて、スーパーなことをしているのよ」と言います。これが、内側の気づきです。

アンマバガヴァンのプレゼンスだけが、この身体とマインドとを支配しています。小さな「私」や「セルフ」の役割はありません。

*現実を体験する:*
機能的ではない状態のときは、感覚やマインドにとても強い気づきがあります。過去や未来に関する通常の考えにさまよい出てしまうときがあるかもしれません。気づきがマインドを「今」に戻します。ここでも、考えがさまい出ることに対する抵抗はありません。考えがあってもなくても、すべてが美しく見えます。ただ、至福と笑顔と平和の中ですべてを目撃しています。

最終的には、平和、平和、平和があるだけです。そして、何ヶ月もの間、私はこれらの状態から離れたことがありません。

たとえ何十億ルピーを支払ったとしても、私はこの状態を得ることはできなかったでしょう。シュリ・アンマ・バガヴァンに何十億もの感謝を捧げます。

(訳者:松山)

 

 

-悟りの体験